[Case1]世界の頂点を目指す最年少チャンピオン躍進の原点

モータースポーツの頂点である、Formula1で活躍をする平川亮選手。F3やSUPER GTに始まり、数々の最年少チャンピオンを獲得し続けてきたその活躍の原点には何があったのか?原動力となっている「言葉」を伺った。

比較ではなく理想を追う価値観が育まれた幼少期

2007年SLカートビスタ広島シリーズ第5戦で初優勝

理想の自分を見て生きること。幼少期からそのような考えを持つ両親の影響もあり、私の価値観となっていきました。モータースポーツには興味を持っていましたが、本格的に始めることはなく中学で選んだのは自転車部。しかし、大きな落車事故をきっかけに、13歳で転向を決意。4〜5歳から始めることも珍しくない業界で、少し異例の存在で、どこか孤独な気持ちもありました。しかし、それ以上に練習環境や指導環境などの面で、両親をはじめとした周囲の全面的な支援があったおかげで初年度から優勝を手にすることができ、最年少記録を樹立。そして24歳の時には日本最高峰の自動車レースの一つであるSUPER GTで最年少チャンピオンを達成しました。周囲からは順風満帆に見えていたと思います。ただ、私の中では正直、心から納得のいく状況ではなかったのです。

限界を超える瞬間との出会い

2017年 SUPER GT500シリーズチャンピオン獲得時

いわば踊り場でした。この先何を目指せば良いかわからなかったのです。上を目指すにも道がなく、このままでもドライバーとしては十分やっていける。あえて挑戦をしなくてもいいのではないか。そんな思いに支配されていた時期でした。そんな私が変化していくきっかけとなったのが、今もF1で活躍をしているマックス・フェルスタッペン選手の存在だったのです。新人としてレースに参戦するやいなや、次々にベテランドライバーを追い抜いて、数々の記録を樹立。まさに脅威の新人でした。「これ以上速く走るのは無理なのではないか」。F1の世界でもそのような現状を限界視する声があり、何を隠そう私もまさにその一人だったのです。しかし、彼の活躍がその考えを根本から打ち破ってくれたのです。「限界を自分で定めていただけだったんだ。自分も彼みたいになりたい」。心の奥底から湧き上がってきた思いでした。誰かに勝つことよりも、タイトルを取ることよりも、周囲に賞賛されることよりも、私が一番求めていたのは、限界に全力で挑み、それを打ち破っていくこと。まさにこれが納得のいく生き方だと思ったのです。「もっと速く走りたい」この思いに素直になって生きること、そして世界の頂点であるF1にいくと、改めて心に決めました。

成功から逆算し続けF1の舞台に

ル・マン24時間耐久レースで優勝を果たした2022年

若いときは勢いが大切でしたが、世界の舞台となるとそうはいきません。そこで役に立ったのが『頂点への道』講座での学びです。成功とは偶然ではなく、明確に目標と期日を定め、逆算してやるべきこと決め、着実に実行していく道のりのなかにある。長年メンターとして支援いただいている青木社長の指導もあり、マインド・スキル・ノウハウそれぞれにおいて徹底的に学び、実践をしました。
上手くいくときもそうでないときも、「なぜ」を分析し改善を見出し、実行しました。特にレースは事前準備が命です。コースへの理解、自分やマシンへの理解、天気への対応、ライバルの理解など、ありとあらゆる状況を想定してシミュレーションします。文字通り、目を瞑っても走れるくらいに準備を重ねていきます。プレッシャーよりも、準備をしてきた自分を知っているので、押し潰されずに闘い抜くことができるのです。

おかげさまで、2022年には世界最高峰レースの一つと言われるル・マン24時間耐久レースで優勝し、2024年からマクラーレンF1チームのリザーブドライバーに就任することができました。チームやスポンサーの皆様を始め、数えきれない方々のご支援があってのことです。より一層、実績が問われる世界です。まだ見ぬ自分を、その可能性を探究する道をこれからも楽しんで歩んでいきたいと思います。どこまでいっても「もっと速く走りたい」という純粋な思いを大切に、自分が納得のいく生き方を貫いていきます。

「もっと速く走りたい」

RYO HIRAKAWA
1994年、広島県呉市出身。13歳でレーシングカートを始める。1年後の2008年には全日本ジュニアカート選手権で史上最短となる年間シリーズチャンピオンを獲得。2017年にはSUPER GT500クラスで、史上最年少で年間チャンピオンを獲得。2022年からはFIA 世界耐久選手権に出場。ル・マン優勝を含むシリーズ2勝2位3回で初のワールドチャンピオンを獲得。2024年よりマクラーレンF1チームのリザーブドライバーに就任。