先人たちも弱かった!〜フランクリン・渋沢栄一・ジョニー キャッシュ〜

完璧な人間なんて存在しない。輝かしい功績で後世に名前を残した偉人たちも、弱点や欠点を抱えた不完全な人間でした。同じ時代、同じ場所に生きたその他の人々との違いはいったい何だったのでしょうか?

規則正しい行動や整理整頓が大の苦手でした

ベンジャミン・フランクリン (1706~1790)
印刷工時代に考案した「格言入りカレンダー」は、本を読む習慣がなかった一般市民に大ヒット。その後、アメリカ独立宣言の起草委員となり、独立戦争への理解を得るため欧州を奔走。避雷針を発明し、世界初の公共図書館を設立した。

ワシントン、ジェファーソン、アダムスらと並んで「アメリカ建国の父」として知られるベンジャミン・フランクリン。貧しい平民の出から立身出世を遂げた理由について、「若い頃に打ち立てた13の徳目を守ってきたから」と自伝で語っています。
節制、沈黙、決断、倹約等々の13項目の中で、じつは本人が最も苦手としたのが「秩序」でした。

仕事は決まった時間に行うべし。と言いながら、「客商売をしていたら急な依頼にも応対しないといけないし、いろいろ世間づきあいもあるから、時間どおりに行動するなんてとてもムリ」、同じ自伝の中でそう打ち明けているのです。
あれ?13徳を守ってきたから成功したんじゃなかったんですか?

物は決まった場所に置くべし。と言ったくせに、「子どもの頃からそういうやり方はしてこなかったし、私はとても記憶力がいいから、その辺に置いておいても別に困らなかった」と開き直る始末。
ただし、開き直った後でこうも続けています。
「年を取って記憶力が衰えた今では、この徳の不足を身にしみて感じている」

自分の弱さや欠点を認める

立身出世を遂げた本当の理由は、むしろ13徳を徹底できない自分を見つめる姿勢にあったのではないでしょうか。
フランクリンは、タテに13徳を、ヨコに曜日を入れた表を作って、毎週一つの徳の改善を図りました。

そのやり方は、毎晩その日に犯した「過失」を書き込むというもの。
いわば加点方式ではなく減点方式。

並の人間なら、自己嫌悪に陥ってしまいそうです。
「友人に恥をかかせないように、少しは欠点も残しておいたほうがいい」
フランクリンでさえそんな言い訳を用意しているほど。

しかし最後には、自分の試みを次のように振り返ります。

「私は、自分が心から願った道徳的完成の域に達することはもちろん、その近くに至ることさえできなかった。それでも努力したおかげで、やらなかった場合に比べて、人間もよくなったし、幸福にもなった」

時は金なり。怒りに始まったものは恥に終わる。知識への投資は最大の利益をもたらす。

……フランクリンが遺した数々の名言は、いわゆる「偉人」ではなく一般市民が自分をつぶさに見つめた結果、到達した至言。
そのように捉えなおすと、時代や地域を超えて多くの人々に「あるある」と親しまれているのも納得です。

実家のお金を使い込んでしまいました

渋沢栄一 (1840~1931)
大小70余りの銀行をはじめ東急電鉄や秩父鉄道、王子製紙、帝国ホテル、キリンビール、サッポロビール等々、設立に関わった企業は500以上。財閥を作らず「公の利益」に徹したその人格は「日本資本主義の父」と讃えられる。

現埼玉県深谷市の養蚕農家に育った渋沢栄一は、自分の青春時代を蚕にたとえて「4回の変化があった」と言い表しています。
まず、農家出身なのに武家さながらに勤皇活動に加わったこと。
次に、勤皇活動をしていたのに徳川家の家臣となったこと。
この間、なんと渋沢は手元に預かっていた家のお金を150両、討幕の資金に使い込んでしまったのです。

計画に頓挫して正直に打ち明けたところ、父親は許してくれたばかりでなく、潜伏生活の資金としてさらに100両持たせてくれたそうな。懐が深い。
それなのに渋沢は、その100両も2~3ヵ月で使い果たしたうえ、友人知人に25両の借金を作ってしまいました。

「論語」に基づいて克己心を養う

後世に知れ渡るかの商才をもってすれば、たかが25両?
しかし当時はひと月4両1分の給料で徳川一橋家に仕える身の上。
節約を覚え、親元に頼らずこの借金を完済した経緯を、渋沢は後に「己に克った」一例として挙げています。

「食物がまずければ小言を言いたくなり、他人が美しい衣服を着ていたら自分も着たくなるのは世の常であるが、私はこういうような些細なことに気をつけ、決して不平不満の念を抱かぬように心掛けた」

大政奉還により幕臣から一転して明治政府の官僚に。
さらに大蔵省を辞して第一国立銀行の頭取に就く、という第3第4の変化を経て、「商工業こそ自分の天職」と見定めたのは35歳のときでした。

著書『論語と算盤』で知られるとおり、渋沢栄一といえば道徳と商売の合一を体現した実業家ですが、論語の教訓も、案外些細なことから実践を積み重ねていったようです。

楽屋であらゆる薬物を試しました

ジョニー・キャッシュ(1932~2003)
アメリカのシンガーソングライター。カントリー、ロカビリー、ゴスペル等、幅広いジャンルで活躍し、エルビス・プレスリーに次ぐヒット曲数を記録。刑務所での無料コンサートやレコード収録など、さまざまな伝説を残した。

悪癖の中には、一人では到底克服できないものもあります。
薬物中毒やアルコール中毒など、肉体と精神を同時に蝕む類の悪癖です。

特にショービジネスの世界では、活躍中のスターがその誘惑に飲み込まれるケースが多く、ジョニー・キャッシュもその一人。
レコードがヒットして人気歌手として昇りつめていく、その楽屋裏で酒や覚醒剤を常用するようになります。

救いの神はジューン・カーターとその家族でした。
カーター家は音楽一家で、ジョニーとは一緒にツアーを組んだ間柄。
自殺寸前のジョニーの邸宅に一家で引っ越してきて、禁断症状との戦いを手助けします。
その甲斐あってジョニーは無事にツアーを再開、ステージ上でジューンにプロポーズするのです。

……つまり、彼が更正できたのは人間関係に恵まれたから。
ではなぜ、そのような人間関係を得られたのでしょうか。

自分の道を一途に歩く

少年時代に事故で兄を亡くして、父親から「悪魔は良い子のほうを奪った」と言われたこと。
ステージでいつも黒い服を着ていたため、「メン・イン・ブラック」とあだ名されるようになったこと。
ジューンとの間に生まれた子供に、兄の名前を付けたこと。

断片的なエピソードをつなぎ合わせると、彼が兄の死に対してずっと罪の意識を負ってきたことがわかります。

「貧しい人たち、打ちひしがれた人たち、罪を償う人たちのために俺は歌う」

それがジョニー・キャッシュの音楽でした。
カーター家が彼を捨てておかなかった理由は、その一貫した音楽性にあったのかもしれません。